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  • 迷走する世界情勢と私たちの選択

    迷走する世界情勢と私たちの選択

    序章:混迷の2025年夏に直面して

    2025年6月以降、世界は経済、紛争、環境の複合的な危機に直面しています。ヨーロッパ、アジア、アメリカ各地域の経済格差は広がりつつあり、政治の場では自国利益を最優先する声が高まっています。一方で、中東から東欧にかけて紛争は激化・長期化し、地球規模の気候変動は極端な熱波や水不足を引き起こし、人々の生活基盤を揺るがしています。この混迷の背景には、直近の利益や狭いナショナリズムに傾斜する風潮があり、世界全体が目指すべき共通の目標を見失いかけているとの指摘もあります。こうした状況下で、経済成長と格差縮小を両立させ、持続可能な未来への道筋を描くには何が必要なのでしょうか。本稿では、世界各地域の経済動向深刻化する紛争、そして水資源や気候変動の課題を概観し、最後に明るい未来に向け各地域の人々が果たすべき役割について考えてみます。

    経済:広がる格差と保護主義の影響

    地域別の経済状況と格差の現状

    2025年半ばの世界経済は不透明感を増しています。米国では景気拡大が鈍化し、欧州連合(EU)でも成長率がほぼ停滞しています。一方、アジアではインドなど一部の新興国が高成長を維持するものの、中国経済の減速や不動産問題もあり、地域内の明暗が分かれています。こうした中、経済規模の面でアジアが西洋に追いつきつつあることは事実ですが、各地域間・国内の所得格差は依然大きく、むしろパンデミックや戦争の影響で悪化した場所もあります。国連の報告によれば、世界経済の減速と生活費高騰により低所得層ほど打撃を受け、格差拡大が懸念されているといいます。このように、経済成長の恩恵は地域・階層によって偏り、持続可能な開発目標(SDGs)達成も危ぶまれる状況です。

    トランプ関税と保護主義ナショナリズムの影響

    世界経済の先行き不透明さを加速させている要因の一つが、保護主義的な通商政策です。2025年に入り、アメリカではトランプ大統領(政権復帰後)が「相互関税」を掲げ大規模な追加関税措置を次々と発動しました。4月には全輸入品に一律10%の関税を課し、中国に対しては事実上累積で100%以上もの高関税を科すなど、前例のない規模の貿易摩擦を引き起こしています。この米中新版・貿易戦争の影響で各国も報復関税に動き、世界の貿易体制は大きく揺らいでいます。国連の分析によれば、関税引き上げによるサプライチェーン寸断やコスト増で2025年の世界成長率は2.4%程度まで減速する見通しとなり(2024年の2.9%から大幅低下)、特に輸出に依存する欧州や新興国が打撃を受けるとされています。実際、米国の成長率は2024年の2.8%から2025年には1.6%へ急減速し、EUも2025年は1.0%成長にとどまる見込みです。この停滞の背景には、互いに報復し合う関税措置で貿易が細り、企業の投資意欲が冷え込んだことがあります。また世界的なインフレ圧力はいったん和らぎましたが、関税によるコスト上昇リスクと政策の不透明感が物価安定と景気運営を難しくしているとも指摘されます。

    さらに深刻なのは、こうした保護主義の台頭が格差問題途上国の債務を悪化させる点です。関税ショックは先進国より脆弱な新興国を直撃し、輸出収入の減少や資金調達コスト増加につながっています。国連の李淳華事務次長も「この関税ショックは持続的発展のための投資が必要な途上国にとって成長減速・輸出減収・債務悪化を招く」と警鐘を鳴らしました。実際、食料インフレや物価高騰はアフリカ・南アジアなど低所得層に重くのしかかり、貿易障壁や気候ショックがそれを一層悪化させています。足元の利益を優先する各国の動きが、結果的に世界全体の経済的安定と公平を損ねているのです。

    グローバル経済協調の再構築に向けて

    経済成長と格差縮小を両立するには、各国が短期的な「自国第一」ではなく、長期的な視野で協調することが不可欠です。例えば、関税合戦ではなく国際協調による貿易ルール整備や、公平な課税で多国籍企業から適切な税収を確保する仕組みが求められます。また富裕層と貧困層の格差是正には、各国国内の再分配政策のみならず、世界規模での支援(開発援助の拡充や気候基金の投入など)が重要です。SNS上では「グローバリズムは自国に不利益」「他国を助ける余裕はない」といった声も散見されます。しかし、世界経済は互いに依存し合う運命共同体です。例えば半導体や食料の供給網は各地域が支え合って成り立っており、一国だけ豊かでも他国が不安定なら結局自国も影響を受けます。私たち市民一人ひとりも、自国産の製品だけで生活できているわけではありません。だからこそ「近視眼的な利益」ではなく広い倫理観と連帯意識を持って経済の在り方を見直す必要があります。企業や政府に対しても、労働者の権利や環境への配慮、開発途上国への責任ある投資を求める声を上げることが、長期的には自分たちの暮らしの安定にもつながるでしょう。経済面での課題克服は一国では不可能であり、地域を超えた協力と倫理的な判断が鍵となるのです。

    紛争:止まらない対立と人道危機

    イスラエルとパレスチナ:終わりなき戦火

    中東ではイスラエルとパレスチナ(ガザ地区)の紛争が2025年に入っても激しさを増しています。2023年10月に発生したイスラエルとハマスの戦争は断続的な停戦交渉の試みがあったものの根本的な解決に至らず、2025年初頭に一時的な人質交換を含む停戦が実現したものの3月には戦闘が再開されました。その結果、2025年6月までにガザでは公式発表で5万4千人以上(人口の約2%)のパレスチナ人が死亡し、建物の3分の2以上が破壊されるという未曾有の惨事となっています。イスラエル側の死者も約1,700人にのぼり(うち多くは2023年10月の奇襲時の犠牲者)、市民生活の安全は著しく脅かされています。国際社会からは繰り返し即時停戦と人道支援の要求が出ていますが、現地では依然として空爆や地上戦が続き、ガザの人々は飢餓や医療崩壊の危機にさらされています。今年7月には国連などで「ガザでは100万人以上が飢餓の淵にある」と警告する声も上がりました。イスラエル政府は自国の安全保障のため作戦続行を主張し、一方でパレスチナ側のハマス指導部も強硬な姿勢を崩していません。この終わりなき紛争は、中東地域の安定のみならず人類の倫理を問う課題となっています。

    解決への糸口としては、国際的な仲介による停戦合意と長期的な和平プロセスの再構築が不可欠です。各国の市民も、この問題に対し無関心でいることは許されないでしょう。イスラエル国内でも戦争継続に反対する声や政府批判のデモが起きています。また世界各地の一般市民が、宗教や民族の違いを超えて犠牲者への支援や平和を求める声を上げています。日本からも中立的立場で人道援助を行ったり、国際世論を喚起する役割が期待されます。互いの歴史的苦悩に理解を示し、人命尊重を最優先に据える倫理観こそ、憎しみの連鎖を断ち切る第一歩となるでしょう。

    ウクライナとロシア:続く戦争と世界への波紋

    東欧ではウクライナ侵攻をめぐる戦争が2年半以上に及び、激しい消耗戦が続いています。ロシア軍とウクライナ軍の前線は膠着状態に近いものの、局地的な攻防やミサイル攻撃で双方に甚大な被害が出ています。2025年6月時点で、この戦争による死傷者は両軍・民間人あわせて推計95万人(うち死亡25万人)に達したとも報じられています。これは21世紀以降で欧州最悪の流血であり、第二次大戦以降の国際秩序をも揺るがす事態です。ウクライナ国内では都市インフラが破壊され、累積GDPは侵攻開始から2024年まででマイナス22.6%という壊滅的打撃を受けました。国土の約2割が今なおロシア軍に占領され、数百万人の市民が難民や国内避難民となっています。エネルギー施設や農地も被害を受けたため、世界の食料(特に小麦)とエネルギー市場にも深刻な影響が波及しました。2022~2023年にはウクライナ産穀物の輸出停滞で中東・アフリカ諸国が食料危機に陥り、日本含む各国でも燃料価格高騰やインフレが起きたことは記憶に新しいでしょう。

    欧米諸国はウクライナ支援を続け、ロシアへの経済制裁を強化していますが、大国間の緊張は冷戦期にも匹敵するレベルに達しています。この長期化する戦争に対し、ロシア・ウクライナ双方の世論でも和平交渉を求める声が徐々に高まっています(2025年春時点でロシア人の64%、ウクライナ人の半数以上が何らかの和平を支持との世論調査もあります)。しかし現実には、互いの条件面で隔たりが大きく、容易に停戦・和平には至っていないのが現状です。

    この紛争で浮き彫りになったのは、国際社会の分断です。欧米とロシア・中国の対立構造が強まり、国連安全保障理事会は機能不全に陥りました。一部の新興国は中立を保ちつつも自国経済への影響から制裁に消極的で、グローバルな足並みは揃っていません。そうした中で私たち一般市民にできることは、戦争の悲惨さを直視し平和の声を上げ続けることです。SNSではプロパガンダやヘイト情報も飛び交いますが、偏った情報に惑わされず、多角的な視点で真実を見極めるリテラシーも求められます。さらに、難民支援や寄付といった具体的行動を通じて、遠い国の問題にも連帯を示すことが大切です。ウクライナ復興には数十年規模の国際支援が必要と言われます。日本を含む平和を享受する国の市民が、「自分たちには関係ない」と背を向けるのではなく、戦争のない世界という共通善のために何ができるかを考え行動すること――それが結果的に自国の平和と繁栄を守ることにつながるのです。

    その他の地域紛争:カシミールから中東へ

    ウクライナや中東以外にも、世界各地で燻る紛争が2025年に表面化しました。南アジアでは、長年の火種であるインドとパキスタンのカシミール紛争が再燃しています。2025年4月にはインド側の観光地パハルガムで武装勢力による襲撃事件が発生し、観光客26人が犠牲となりました。インド政府は隣国パキスタンの関与を非難し、5月には両軍が4日間にわたり激しい交戦を展開、核保有国同士の衝突に世界が緊張しました。幸い外交努力で短期のうちに停戦が成立しましたが、両国の対立は根深く、再び危機に陥る可能性は残っています。この地域は宗教や民族の対立も絡む複雑な歴史を持ちます。インド・パキスタン双方の市民には、相手国に対する固定観念や憎悪を和らげ、平和共存の道を探る声を強めていくことが求められます。例えばビザ緩和や文化交流を通じた相互理解の促進、市民レベルの対話など、小さな積み重ねが政治を動かす力になるでしょう。政府間交渉に委ねるだけでなく、市民社会の対話がこの地域の未来を左右すると言っても過言ではありません。

    中東では、イラクやシリアの情勢も依然不安定です。イラクでは過激派組織IS(イスラム国)の脅威は大幅に低下したものの、宗派間対立や汚職問題が政治を停滞させ、経済再建は道半ばです。特に水資源の不足は深刻で、トルコやイランの上流ダム建設によりティグリス・ユーフラテス川の水量が激減し、イラク南部では安全な水の確保が難しくなっています。シリアでも2010年代の内戦の爪痕が色濃く残り、人口の半分以上が国内外で避難民となったままです。2025年現在、アサド政権は国内大部分を掌握しましたが、北部ではクルド勢力やトルコ支援の反体制派との小競り合いが続き、人道援助が必要な人々も多く存在します。復興費用は推定で数千億ドル規模に上り、国際社会の協調なくしては成り立ちません。ところが、大国の思惑や制裁問題もあって復興支援の枠組みは整っていません。

    こうした地域紛争や不安定要因に対し、求められるのは**「対話と寛容」の精神**です。各地域の市民は、自らの政府に対し軍事的解決ではなく外交的解決を促す声を上げる必要があります。また、異なる宗教・民族への理解を深め、過激なナショナリズムを拒絶する姿勢も大切です。カシミールや中東で苦しむ人々の映像はSNSなどで瞬時に世界中に広まります。そこで目を背けず関心を持つこと、真実に基づいた情報発信をすること、それ自体が紛争当事者たちへの国際的圧力となり得ます。争いの当事者でなくとも傍観者にならない──それが現代を生きる我々一人ひとりの責任ではないでしょうか。

    環境:水資源危機と気候変動がもたらす試練

    水不足と食料供給への影響

    地球環境の側面では、水資源の枯渇と異常気象という二重の危機が進行しています。国連機関などの報告によれば、2025年までに世界人口の半分が水不足地域に住むと予測され、現時点でも20億人以上が安全な飲料水を得られず、36億人(世界人口の44%)が基本的な衛生設備を利用できていません。安全な水へのアクセスがないために、毎日1000人の子供が命を落としているという衝撃的な統計もあります。需要に対して水供給が追いつかない状況は今後さらに悪化し、このままでは2030年までに世界全体で需要が供給を40%上回るとされています。水不足は人間の生存に直結するのみならず、農業生産やエネルギー供給にも影響を及ぼします。実際、世界の食料生産の半分以上は水利用が不安定な地域に依存しており、水問題が放置されれば食料危機につながる恐れがあります。2050年までに水問題が解決されなければ、世界のGDPは約8%押し下げられ、貧困国では15%もの損失になるとの試算もあります。まさに水資源は21世紀の「青い石油」とも言うべき戦略的な財となりつつあり、各地で水をめぐる争い(いわゆる「水紛争」)の火種がくすぶっています。

    水問題を一層深刻にしているのが気候変動による異常気象です。地球温暖化の進行により、雨の降り方が極端化し干ばつと洪水が頻発しています。例えば中東・北アフリカ地域は世界有数の乾燥地帯ですが、気温上昇でさらに雨量が減少し地下水も枯渇しつつあります。先述したイラクの水不足などはその典型例です。また南アジアではヒマラヤ氷河の融解が進み、河川の水量変動が極端化して下流域の農業に打撃を与えています。中国や米国西部、アフリカのサヘル地帯などでも大規模な干ばつが報告され、各地で農作物の不作や食料価格の上昇が懸念されています。実際に2022~2024年にかけては、世界の様々な地域で極端気象が食料価格の急騰を招きました。穀倉地帯であるインドや中国でも高温少雨による減収が問題化し、国際市場の不安定要因となっています。

    特に熱波(ヒートウェーブ)の脅威は看過できません。2025年は幸いエルニーニョ現象の影響で世界的には若干冷涼と予測されていましたが、東南アジアでは予想に反し例年以上の猛暑に見舞われました。今年の春先、フィリピンでは記録的熱波が発生し、気温が連日42~51℃に達して漁業や農業に深刻な影響を与え、一時的に学校閉鎖も余儀なくされる地域が出ました。インドやパキスタンでも通常より8℃も高い異常高温が観測され、電力不足や健康被害を引き起こしています。科学者たちは「今後は熱波がより早い時期から長期間に及ぶ傾向が強まる」と警告しており、高温多湿の環境下では人間の健康のみならず農作物の生育や食料供給にも甚大な支障が出るとしています。実際、極端な高温下では作物が枯死したり家畜が大量死するケースも報告されており、気候変動対策を怠れば将来的な食料不足に直結しかねません。

    環境問題への取り組みと倫理的視点

    水と気候の危機は、一国のみで解決できる問題ではありません。にもかかわらず、現状では水問題に関するグローバルな協調体制は不十分です。例えば気候変動についてはパリ協定で各国の温室効果ガス削減目標が掲げられていますが、現行の目標では不十分との指摘が相次ぎます。また水資源については、国際河川の利用ルールや地下水の保全などで法的枠組みが脆弱で、地域ごとの争いが優先されがちです。こうした中で必要なのは、「水を地球共有の財産(コモン)と捉える発想」と報告書は提言しています。すなわち、無限に使えるものではなく貴重な有限資源であるとの認識を世界全体で共有し、各国政府が協調して水源を守り汚染を防ぎ循環利用を促す取り決め(グローバル・ウォーターパクト)の締結を目指すべきだというのです。これは容易な道ではありませんが、21世紀の人類に課された責務でしょう。

    私たち一人ひとりも、日常生活から環境問題に向き合うことができます。例えば水の無駄遣いを減らす、食品ロスを減らす、省エネを心がける、地産地消を進める、環境負荷の低い商品を選ぶなど、小さな行動が集まれば大きな変化となります。また選挙や消費行動を通じて環境配慮型の政策・企業を支持することで、社会全体を持続可能な方向へ動かす力にもなります。SNSでは時に「エコなんて偽善だ」といった冷笑的な声が見られますが、未来世代への責任を果たすためには、目の前の利益だけでなく長期的倫理観に根差した選択が求められます。気候変動は公平ではありません。最も影響を受けるのは、温暖化への寄与が小さい途上国の貧しい人々だったり、まだ生まれていない将来世代です。この現実に思いを馳せ、私たち現在を生きる人類が「地球を預かる者」としての倫理を持つことが、危機克服の前提条件になるでしょう。

    結章:共通善に向けた倫理と連帯

    ここまで見てきたように、世界は経済・紛争・環境という三つの難題に直面しています。そしてこれらは互いに絡み合い、私たちの生活を揺るがしています。経済的な格差拡大は社会不安を招き、紛争の火種となります。紛争は経済発展を阻害し、環境破壊をもたらします。環境問題はさらに経済格差を広げ、資源争奪の紛争を誘発するかもしれません。まさに**地球規模での「負のスパイラル」**が懸念される状況です。

    しかし、私たちは絶望する必要はありません。人類は過去にも多くの危機を乗り越えてきました。その原動力となったのは、倫理観に基づく協調と共通善への意志です。第二次大戦後、世界は国連を設立し、人権宣言を採択し、国際協調の枠組みを築きました。それは人類が悲惨な戦争を反省し「二度と過ちを繰り返さない」という倫理的決意をしたからこそ実現できたのです。冷戦終結後も、地球サミットで気候変動枠組条約が結ばれたり、持続可能な開発目標(SDGs)が掲げられたりと、共通の目標に向けて各国が集まった例はあります。問題は、現在その目標が見失われつつあることです。ポピュリズム政治やSNS上の過激な言説に煽られ、「自国さえ良ければいい」「今さえ良ければいい」という風潮が広まると、長期的視野や地球市民意識は薄れてしまいます。

    今こそ私たちは足元を見つめ直し、普遍的な倫理に立ち返るべき時です。それは難しい哲学ではなく、「人を殺めてはならない」「飢える人がいれば手を差し伸べる」「将来世代に恥じない行動をする」といった当たり前の道徳心です。グローバル化した現代では、この当たり前の徳目を地球規模で実践することが求められています。他者への思いやりを国家や民族の枠を超えて広げ、未来の人々や地球環境にまで及ぼすこと──それが今求められる倫理の拡張です。

    各地域の人々がそれぞれ果たすべき役割も見えてきます。欧米の市民は、自国政府に対して覇権争いよりも地球規模課題への協力を促す責任があります。例えばアメリカやヨーロッパの人々は、消費者・有権者として持続可能な企業や気候政策に積極的な政治家を支持することで、世界全体の方向性を変えられます。アジアの人々には、経済成長の著しい地域だからこそ新しいモデルを示す役割が期待されます。高度成長と民主主義、環境保護と技術革新を両立させ、「発展しながら調和する」道を示せれば、それは他の途上国の希望となるでしょう。中東やアフリカの人々は、困難な状況の中でも教育や対話を通じて暴力に訴えない解決策を模索し続けることで、自らの地域の安定のみならず世界の平和に貢献できます。そして日本を含む全ての国の市民は、世界の出来事に無関心でいないことが何より重要です。他国の痛みに共感し、自国の利益と地球全体の利益をバランスさせて考える視点を持つ──それがグローバル市民としての振る舞いでしょう。

    幸いなことに、現代は情報技術のおかげで世界の出来事をリアルタイムで知ることができます。SNSには負の側面もありますが、使い方によっては連帯と共感の強力なツールになり得ます。実際、世界中の若者たちが気候ストライキやハラスメント反対運動などを通じて繋がり、声を上げています。こうしたポジティブな連帯を広げていくことが、閉塞感を打破する鍵です。

    経済成長と格差縮小の両立平和と安全の追求環境と繁栄のバランス――これらはいずれも一国単独では成し得ない壮大な課題です。しかし、人類が共通の倫理観と目標意識を取り戻せば不可能ではありません。一人ひとりの行動は小さくとも、それが集まれば社会を動かし、やがては国家を、世界を動かします。足元の小さな善意や倫理的判断が、積み重なって大きな変革を生むのです。

    2025年という節目の年に、世界は一度立ち止まって自らに問う必要があるでしょう。「このままで良いのか? 私たちはどんな未来を子孫に残すのか?」と。答えは各人の胸の内にあります。経済的豊かさも大事ですが、それだけを追い求めて人間性を失っては本末転倒です。テクノロジーの進歩も素晴らしいですが、それが人を幸せにする方向に使われなければ意味がありません。世界が目指すべき目標とは結局、「すべての人が人間らしく生きられる未来」を実現することではないでしょうか。そしてそれは、国境や世代を超えて協力し合うことで初めて可能になる目標です。

    混迷する現代だからこそ、私たちは希望を捨てず連帯し、倫理的な行動規範を掲げて歩み出しましょう。経済の仕組みを人々のために作り直し、憎しみの連鎖を対話と和解に変え、地球というかけがえのない家を大切に守り続ける。そんな未来図を信じ、それぞれの場所でできることから実践することが、きっとより良い世界への道を切り開くはずです。世界が再び共通の目標に向かって歩み出す日を願いながら、まずは私たち自身がその一歩を踏み出すときなのかもしれません。

    2022年のノーベル平和賞が、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの市民社会の活動家たちに授与されたことを思い出す必要があります。彼らは国家ではなく、人々の側に立ち、過去の抑圧や現在進行中の戦争犯罪を記録し、真実を伝えようとしました。それは、戦争を繰り返さないために必要な倫理的行動の具体例です。

    戦争や抑圧の再発を防ぐには、記録し、共有し、制度に刻み込むことが必要です。記録を残す人々を守り、その情報を誰もがアクセスできる形にし、司法や国際機関がそれを根拠に機能する。これが「倫理の拡張」であり、21世紀の平和構築の基礎なのです。


    🔗 参照情報リンク集

    🌐 経済と格差・保護主義の影響


    🕊️ 紛争:ウクライナ・中東・カシミール


    💧 環境・水資源・気候変動


  • 宗教の自由という名の支配構造
ー スパルタ化するアメリカと形式化する政教分離 ー

    宗教の自由という名の支配構造 ー スパルタ化するアメリカと形式化する政教分離 ー

    「宗教の自由」は、いかにも美国てきたりの美徳を表すような言葉です。 しかし現在の美国でこの表現を直接に受け取ってよいのだろうかと考えると、それははなはだ疑問です。

    そもそも「宗教の自由」とは、不宗教も含めて、どのような信仰をもつことも自由であり、個人の内心の問題について政治や社会は上手く近づかないようにするという、公共圏と私的領域を分ける価念でした。 これは、長く続いた宗教戦争の結末にたどり着いた「争わないための矢弾」でもありました。

    しかし現在の美国においては、この「自由」は混乱した意味をもつようになってきました。

    とくに白人プロテスタント禅教の派閥を中心とする社会勢力が「自分たちの道徳を社会の中心に戻す」ことを「宗教の自由」の名目で正当化し、他者を排除しようとする動きが現れています。

    そしてその動きは、政教分離の原則を壊し、さらには社会全体を「アテネ化」ではなく「スパルタ化」させようとする思想的転回を伴っています。

    この文章では、このような変転が美国の政治や社会、あるいは欧米関係にどのような広がりをもたらしているのか、政教分離を「仲良の原理」としてもってきた私たちにとって、何が問われているのかを考えてみたいと思います。

    【第1章】世界最初の政教分離とその崩壊

    美国、すなわちアメリカ合衆国は、近代において世界で初めて政教分離を明文化した国家でした。 1791年に成立した合衆国憲法修正第1条は、「連邦議会は、宗教の確立に関する法律、またはその自由な行為を禁止する法律を制定してはならない」と定め、国家と宗教を明確に分けることを原則としました。

    この規定は、ヨーロッパで繰り返されてきた宗教戦争と宗派的迫害に対する反省の上に立っており、宗教を国家の外に置くことで、信仰を私的な自由として守るという理念に基づいています。 これは一種の「憲法的休戦協定」であり、信じる自由と信じない自由をともに保障することによって、多様な価値観の共存を可能にする知恵でもありました。

    しかし、現代アメリカでは、この原則が大きく揺らいでいます。 とくに近年のトランプ政権下においては、「宗教の自由」の名のもとに、ある特定の宗教的価念、具体的には白人プロテスタント禅教の道徳観が、国家政策や公共空間の中に強く反映されるようになってきました。

    中絶の禁止、LGBTQ+の權利の否定、公教育への宗教道徳の導入など、その動きは枚挑にいとまがありません。 その一方で、他の宗教や信仰を持たない竄地への配慮はますます幼薄になっており、形式的には政教分離が維持されているように見えても、実質的には「一宗派の支配」が進んでいるのが現実です。

    かつて国家が宗教から距離を取ることで守られていた公共の中立性は、今や特定の宗教イデオロギーによって塗り替えられつつあります。 この変化は単なる文化現象ではなく、合衆国憲法の根本原理を問い直す重大な転換であるといえるでしょう。

    【第2章】「自由」の名をかたる宗教支配

    日本で「宗教の自由」という表現を聞くと、多くの人が「どの神様を信じても良い」「仲良く互いを認め合う」といった素朴で穏やかなイメージを思い浮かべるでしょう。 しかし、トランプ政権下で使われている「宗教の自由」は、そのような意味とは大きく異なります。

    それはもはや「すべての宗教のための自由」ではなく、特定の宗教――特に白人プロテスタント福音派――の教義や道徳を、社会全体に広めようとする「布教の自由」や「支配の自由」に変質しています。

    例えば、トランプ政権下では、宗教的理由を前面に出してLGBTQ+の権利を否定したり、宗教的信念を理由にビジネスの提供を拒否することが容認されるようになりました。 こうした行為は「宗教の自由」の名のもとに正当化されていますが、実際には異なる価値観や生き方を排除し、自分たちの信仰を社会規範にしようとする動きに他なりません。

    このような傾向を支えているのは、アメリカ国内における政治的・宗教的分断の深まりです。 リベラル派が個人の自由を重視する一方で、保守派は社会全体を「道徳的に正す」ことを重視します。 ここに、互いの価値観が交わらないまま対立する構図が生まれ、公共空間の中立性が失われていきます。

    これはもはや「自由とは何か」という根本的な問いに立ち返る必要がある状況です。 真の自由とは、異なる意見や信仰を持つ他者の存在を認め合うことにあります。 特定の信仰を社会の唯一の正義として押し出すことは、自由の否定に他なりません。

    アメリカにおける「宗教の自由」という言葉は、今や特定の宗派が社会を支配するための名目として使われつつあります。 このことを私たちは、はっきりと認識しておく必要があります。

    ※補足:この問題の背景には、1970年代以降の宗教右派と政教分離をめぐる攻防の歴史があります。 次の「Box1」にて、その流れを時系列で振り返ります。

    📦 Box1:政教分離と宗教右派の攻防

    (1970年代から現在までの主要な出来事)

    年代出来事・動き宗教右派の立場・行動政教分離への影響
    1970年代ロー対ウェイド判決(1973)による中絶合法化公立学校での祈祷禁止強化ジェリー・ファルウェルらが「Moral Majority」結成宗教右派が政治へ積極進出、政教分離への不満が表面化
    1980年代レーガン政権が宗教右派と連携中絶反対・家族の価値・祈祷復活などを政策課題として推進宗教的価値観が政策に影響、分離原則が弱体化
    1990年代福音派メディアと政治資金力が増大Fox Newsなどの右派メディアと連動、共和党への影響力増大価値観の極端化と二極化が進行
    2000年代ブッシュ政権が「信仰に基づく取り組み」を拡大教会を通じた福祉・教育支援を拡充、「宗教と公共」の融合進む宗教機関と行政が密接化、政教中立の曖昧化
    2010年代オバマ政権下の同性婚合法化・LGBTQ権利拡大宗教右派の抵抗が強まる「宗教の自由」法を盾に差別容認の動き、ベーカリー訴訟などが象徴信教の自由が“攻撃手段”として用いられるようになる
    2020年代トランプ政権、「宗教の自由委員会」設置(2025)公教育に宗教的道徳の導入検討プロテスタント福音派が政権の基盤、政策・人事に強い影響力政教分離の形骸化が進行、公共空間が宗教的に再構築される

    ✍️ 補足メモ:

    • 「政教分離」とは、国家が宗教を推進も抑圧もせず中立を保つ原則です。
    • 宗教右派は「宗教の自由」の名のもとに、自らの価値観を公共政策に反映させようとし、結果として政教分離を揺るがす構造が生まれました。
    • 特に1970年代以降の潮流は、政教分離の“静かな崩壊”と捉えることができます。

    【第3章】スパルタ化するアメリカ

    現代アメリカ社会の変質を読み解くうえで、象徴的なのが「アテネ型からスパルタ型へ」という比喩です。 ここで言う「アテネ型」とは、言論の自由、熟議、多様性の尊重といった民主主義の理想を体現するモデルであり、古代ギリシャのアテネ市民国家に由来します。

    これに対し「スパルタ型」は、軍事的統制や維持、中央への忠誤、異論者や異文化の排除を重視する社会モデルです。 この言葉は、古代ギリシャの基幹国スパルタに由来します。スパルタは軍事教育を根本に、童年期から戻ることなき練習と統制を課し、全ては国の勝利と統制のためにあるとする社会構造でした。

    この章では、アメリカがどのようにして「アテネ型」の民主主義から「スパルタ型」の統制社会へと傾斜していったのかを見ていきます。

    特にトランプ政権下では、忠誠を何よりも重視し、異論や異端を「裏切り者」として扱う言説が一般化しました。 官僚や軍人、学者やジャーナリストまでが、個人の信念や専門性ではなく、大統領個人への忠誠度で評価されるようになってきたのです。

    こうした傾向は、政権内の人事に顕著に現れています。 「気に入らない者は解任」「同調する者は昇進」という構図は、まるで古代スパルタにおける無条件の服従と似ています。 本来であれば民主主義社会においては多様な意見が存在し、それをぶつけ合いながら合意形成を図っていくことが前提ですが、今のアメリカでは「一つの価値観だけが正しい」とする空気が濃厚になっています。

    視点アテネ型社会スパルタ型社会
    政治モデル熟議と議会による合意形成指導者への忠誠と命令系統の一元化
    言論空間自由な発言、多様な意見の容認意見の統制、「敵対的言論」の排除
    教育対話と批判的思考の重視忠誠・規律・道徳の刷り込み
    宗教との関係宗教の私的領域化(政教分離)宗教的道徳を公共空間に反映
    社会の多様性異なる価値観との共存を許容異分子を「非道徳」「敵」とみなす
    支配の正当性市民による選挙と議論「正しさ」や「強さ」による主張

    また、公共空間における排他性の強まりも見逃せません。 宗教的・道徳的に「正しい」とされる価値観だけが持ち上げられ、それ以外は「堕落」「非国民」とされる風潮が広がっています。 学校教育では、性の多様性や歴史的差別の教訓を扱う授業が「親の権利」によって排除され、学問の自由は萎縮しつつあります。

    このような社会の統制化は、表面的には秩序を保つかのように見えるかもしれませんが、実際には市民の間に疑心暗鬼と自己検閲を生み出しています。 異なる価値観を表明することがリスクとなり、「安全な発言」しか許されなくなる社会は、民主主義とはほど遠い状態です。

    つまり、アメリカは今、自由を重んじるアテネ型のモデルから、忠誠と統制を重視するスパルタ型の社会構造へと変質しつつあるのです。 そしてこの傾向は、政治だけでなく、教育、宗教、地域社会といったあらゆる分野に波及しています。

    この章ではその危うさを明らかにしました。次章では、こうしたスパルタ化が国際関係、特にヨーロッパ諸国との文明的断絶を引き起こしつつある点について掘り下げていきます。

    【第4章】欧州との文明的断絶

    アメリカ社会のスパルタ化は、国内の民主主義の形骸化にとどまらず、国際社会との文化的な断絶も引き起こしつつあります。とりわけヨーロッパ、特にフランスとのあいだには、自由や公共性に対する考え方において顕著な違いが見られます。

    フランスでは、国家や自治体による公共の保護が重視されており、市民社会がその原則に積極的に参加しています。たとえば2024年のパリ・オリンピックでは、多くの市民が街中にオリンピックを称える手作りのオブジェを飾り、公共空間を共有する祝祭として大会を盛り上げています。ツール・ド・フランスでも、沿道の市民が交通規制に協力し、自宅の前に選手を応援する旗やメッセージを掲げるなど、競技を「みんなのもの」として支える姿勢が当たり前のように根付いています。

    このような公共志向は、単なる文化ではなく制度の中にも深く組み込まれています。政策決定のあらゆるレイヤーで「熟議」や「協議」が重視され、市民と行政、専門家が意見交換を行う文化が強く残っています。意見が割れたまま決断するのではなく、時間をかけて合意を形成することに価値が置かれているのです。

    これはまさに「アテネ型」社会の特性であり、多様性と対話、公共性の尊重によって社会の一体感を育んでいます。 これは、より歴史的に見れば、中世のフランスが多数の都市国家や自治体に分かれ、それぞれが異なる意見や判断を持っていたことともに、その中で生き残るために論言と協議の文化が発達した経緯に基づくものでもあります。

    一方、現在のアメリカでは、公共よりも私的自由が優先され、合意形成よりもトップダウンの決定が重視されがちです。「自分の信じる正しさ」を他者に譲らず、時に国家政策として押し通すスタイルは、他国との価値観の共有を困難にしています。とくにフランスのように熟議と公共精神を重んじる国々とのあいだでは、文明的な断絶が広がりつつあるのです。

    ヨーロッパでは、公共空間の中立性や信教の自由が「多様な価値観が共存できる状態」として理解されますが、アメリカではその「自由」が特定宗派の優越や道徳の名による排除へとすり替わっている傾向があります。これにより、欧州との外交的なすれ違いは今後さらに深刻化する可能性があります。

    アテネ型の社会モデルを今なお維持し、実践しようとしているフランスのあり方は、アメリカにとって強い対照であり、同時に鏡でもあります。

    📦 Box2:フランス=アテネ型の最後の砦?

    フランス社会が「アテネ型社会モデル」の実践例とされる理由を、以下に簡潔に整理します。

    • 公共空間はみんなのもの
       市民が街路や広場に装飾やオブジェを設置し、イベントに参加することが奨励される文化。オリンピックやツール・ド・フランスではその傾向が特に顕著。
    • 自治と熟議の伝統
       地方議会や学校、地域団体など、あらゆるレベルで意見交換と合意形成を重視。行政が市民とのミーティングを継続的に行う文化が根付いている。
    • 政教分離の厳格な実践
       公立学校では宗教的シンボルの排除が徹底されており、公共空間における中立性が憲法原則とされている(ライシテの原則)。
    • 歴史的背景としての都市国家的分権
       中世から続く都市国家的な多様性の中で、対話と交渉によって秩序を作るという慣習が培われてきた。
    • EU標準の価値観としての継承
       このフランス的な熟議重視と公共志向は、今やEU諸国の「標準的な公共倫理」の土台となっている。

    【第5章】二重の形骸化と失われた公共圏

    ここまで見てきたように、アメリカでは「宗教の自由」という名のもとに、特定宗派による公共空間の専有が進み、同時に経済面では富裕層や企業による国家権力の私物化が進んでいます。 これは、宗教と経済という二つの異なる領域において、民主主義の基本原則が徐々に空洞化していることを意味します。

    第1の形骸化は、「政教分離」の原則が機能しなくなっている点にあります。 宗教的中立性が守られるべきはずの公共政策に、特定宗派の教義が積極的に持ち込まれ、それがあたかも“国の道徳”であるかのように制度化されつつあります。

    第2の形骸化は、経済構造における貴族化です。 富裕層やグローバル企業が、法や制度を自らの利益に沿って再編し、一般市民の声が政治に届かなくなっている。 民主主義の根幹である「公共の利益」が、「私的な利益の最大化」へとすり替えられているのです。

    この二つの構造的問題が同時に進行することによって、アメリカの公共圏そのものが分解されつつあります。 言い換えれば、経済と宗教という二つの力が、公共空間を二方向から“囲い込み”つつあるのです。

    この問題は、すでに公開したもうひとつのブログ記事「アメリカはもう貴族社会」との接点でもあります。 あちらでは、主に経済と政治権力の癒着に焦点を当てましたが、ここでは精神面、すなわち宗教的イデオロギーによる専有が、もう一方の“公の死角”として浮かび上がってきます。

    経済の私物化と信仰の独占。 この二つが並行して進んだとき、社会は“表向きの民主主義”の形を保ちながら、実質的には「忠誠を要求する共同体」と「富のために機能する制度」の二重支配に陥ります。 それは、かつて歴史の中で繰り返されてきた封建制や神政政治と、驚くほど似た構造なのです。

    次章では、この二重構造がアメリカ国内だけにとどまらず、世界に与える影響――とくに「自由」と「民主主義」を掲げてきた国際秩序の意味が問い直される現実――について考察していきます。

    📦 Box3:欧州が恐れるスパルタ化

    • 欧州諸国が懸念しているのは、アメリカの関税強化や産業政策だけではありません。
    • より深刻なのは、ビッグテックが個人の行動・思想・関心をアルゴリズムで把握し、世論形成を事実上支配しうる状態になっている点です。
    • これが、政治的忠誠と結びついたとき、自由な意見形成や選挙の正当性そのものが揺らぐことになります。
    • 欧州では、GDPRなどを通じて個人情報の保護を最優先しており、「情報の非対称性」に基づく支配を最大の脅威とみなしています。
    • 宗教的道徳の押し付け、ビッグテックによる情報独占、富裕層による法制度の私物化——これらが統合されることこそ、欧州にとっての「アメリカ的スパルタ化」の恐怖です。

    【最終章】民主主義という手続き、その再発明へ

    アメリカの現状は、民主主義国家の仮面をかぶった封建国家への回帰にも見えます。 法は私的利益の道具にされ、宗教的忠誠が政治の基準とされ、メディアや情報空間は支配の手段となっています。

    けれども、これは“例外的な逸脱”ではなく、むしろ民主主義の土台が常に陥りやすい罠であることを示しています。 つまり、制度を形式だけ守っていても、精神的な基盤――つまり「異なる者どうしが、どう共に生きるか」という熟議の前提――が損なわれれば、制度は機能不全に陥るのです。

    民主主義とは、多数決のことではありません。 それは飛行機がどの滑走路に着陸するかを多数決で決めないのと同様に、技術的・倫理的・生活的な多様性の中で、安全かつ最善の選択肢を、みんなの合意のもとに探る仕組みです。

    そしてそれは、単に「意見を言い合うこと」ではなく、「異なる立場を前提として調整すること」です。 生活の仕方が異なる人、信じるものが違う人、文化の異なる人々が、それぞれを否定せず、最大限に幸福を追求できるようにする――。 民主主義とは、そうした調整のプロトコルなのです。

    いま必要なのは、この「熟議のプロトコル」を再確認し、共有しなおすことです。

    📦 Box4:熟議プロトコル7箇条(案)

    1. 互いの前提・生活背景が異なることを前提とする
    2. 相手の人格ではなく、行動や主張に注目する
    3. 一方的に説得・教育しようとせず、まず聴く
    4. 正しさではなく、落としどころを探る
    5. 結論よりも、共有された手順を大事にする
    6. 発言力の偏りに気づき、積極的に是正する
    7. 「同じにする」ではなく、「共にある」を目指す

    これらは、あくまで一案にすぎません。 けれども、こうした基本を再確認しない限り、民主主義という言葉は中身を失い、単なる言い訳のラベルとなってしまいます。

  • アメリカはもう貴族社会

    アメリカはもう貴族社会

    1. はじめに:日本人にとってのアメリカ像と現実のズレ

    日本では「自由の国」「民主主義の先進地」というアメリカ像が根強く残っています。ハリウッド、シリコンバレー、そして大統領選挙。どれもが“開かれた社会”の象徴と見なされてきました。

    しかし、2025年現在、実際にアメリカで起きていることは、そのイメージを大きく裏切るものです。

    本記事では、アメリカが静かに、しかし急速に「貴族社会」へと変貌しつつある現実を、2つの視点から見ていきます。

    • 富と資本の集中による“選ばれた者だけの経済圏”の出現
    • 行政制度を急速に書き換えるProject 2025の政治的実装

    この2つが交差するところに、選挙では選ばれていない“新しい支配層”が現れています。

    2. 格差は「過程」ではなく「体制」になった

    格差という言葉は、長らく「是正できる差」として語られてきました。努力や教育、機会の均等によって縮小されうるもの、と。

    しかし今のアメリカでは、格差は「社会の構造そのもの」となりつつあります。富は、公開された市場ではなく、非公開の資本ネットワークの中で回され、増殖しています。

    その象徴が、イーロン・マスク氏の周囲に形成された“PayPalマフィア”とも呼ばれる経済ネットワークです。彼らは、外部から見えない形で、株式や事業機会を「内輪」で回し、資産を世襲的に積み上げています。

    これはピケティが指摘する「r > g(資本収益率が経済成長率を上回る)」の現実的な姿であり、格差はすでに「固定された秩序」になってしまいました。

    3. マスク氏の非公開資本ネットワークと“公開の拒否”

    SpaceX、xAI、Neuralink、The Boring Company──これらはすべて、マスク氏が率いる未上場企業です。

    彼の初期の企業であるテスラだけは上場していますが、それ以外は意図的に「上場しない」ことを選択しています。

    代わりに取られている手法が、SPV(特別目的事業体)を活用した非公開株の限定販売です。仲間内の超富裕層にだけアクセスを許し、株主リストや財務状況が外部から見えない構造を維持しています。

    この閉じたネットワークによって、

    • 成長の果実は“選ばれた者”だけが享受し、
    • 一般市民はその実態すら知ることができず、
    • 法的にも開示義務が発生しない

    という「透明性なき資本主義」が形成されています。

    4. Project 2025は「乗っ取り」ではなく「再設計」だった

    Project 2025は、2023年にヘリテージ財団など保守系シンクタンクによって出版された政策提言書であり、約1,100ページにわたって行政改革や価値観政策についての提案が記されています。日本ではあまり知られていませんが、これはアメリカの保守派が次期政権に備えて用意していた「政策の青写真」のようなもので、トランプ氏の2期目当選が確定した後、政権移行チームが政策を検討する際にこの文書を積極的に参照しました。実際、政権移行チームの中にはこの文書の執筆メンバーが複数含まれており、Project 2025は“公式には計画ではないが、実質的な指針”として大きな影響を与えることになりました。

    この文書自体は、元々「官僚主導の岩盤規制をどう改革するか」という、真面目な行政改善の試みでもありました。

    しかし、トランプ政権の政権移行期において、その一部(とくに行政人事、忠誠主義的改革、安全保障分野の強権化など)が断片的に悪用され、

    • 行政機構の忠誠化(Schedule F1
    • 連邦機関の裁量権縮小
    • 政策決定の即断即決主義

    といった形で、実質的な「国家再設計」が行われています。

    意図は必ずしも悪ではなかったかもしれません。 しかし、制度の外から強引に実装されることで、“乗っ取り”のような実態を生んでしまったのです。

    5. DOGE:非公式の権力と透明性なき影響力

    正式な行政組織ではない「DOGE(Department of Government Efficiency:政府効率局)」と呼ばれる非公式ネットワークが、トランプ政権下で政策の中枢に食い込んでいます。

    マスク氏はこのチームの“相談役”ないし事実上の主導者として、

    • 行政コスト削減
    • デジタル化・自動化
    • 官僚の削減

    といった名目のもと、実質的には官僚機構を無力化する提案を次々と提示。

    この動きは「効率化」と呼ばれますが、

    • 政策決定の正当性
    • 国民への説明責任
    • 公務の継続性

    といった民主主義の土台を侵食する危うさを孕んでいます。

    しかも、DOGEに関わる人々は政府の正式職員ではないため、誰も説明責任を負っていないのです。

    6. 国家と資本が融合した「現代の貴族制」

    こうして生まれているのが、

    • 制度の外から動かす力(非公式政策ネットワーク)
    • 内輪だけで資産を運用・蓄積する閉鎖経済

    が一体化した、新しい支配モデルです。

    それはもはや“民主主義のなかの格差”ではなく、民主主義の構造そのものを外から凌駕する力として機能しています。

    選挙を経ず、情報開示もなく、法の適用範囲すら曖昧なまま、国を動かす。

    形式的にはまだ「民主国家」でありながら、実態としては“非公式な君主制”が併存しているような状態です。

    7. 民主主義は負けていない

    ここまで述べてきたように、アメリカではいま、富と権力が限られた人物やネットワークに集中し、民主主義の構造が揺らいでいます。しかし、それでも私は「民主主義が終わった」とは言いたくありません。

    なぜなら、民主主義と自由主義は同じではないからです。

    自由主義とは、個人の自由や市場の自由を尊重する理念であり、しばしば国家の介入を抑制する方向に向かいます。一方で、民主主義とは、全員がルールに参加し、ルールに従って社会を動かす仕組みのことです。民主主義は、単なる選挙のことではなく、

    • 権力分立
    • 透明な情報開示
    • 公正な議論
    • 少数派の権利の保護
    • そして、何よりも「ルールへの敬意」

    を基盤にしています。

    この「敬意」が欠けたとき、民主主義は意外なほど簡単に壊れます。

    民主主義は、単なる制度ではなく、過去2000年以上にわたる失敗と反省の積み重ねから生まれた“ルールブックです。暴君の登場、貴族の腐敗、戦争と革命、あらゆる歴史の中で、何が人間社会に必要かを検討し直しながら磨かれてきた知恵です。

    しかし、もしこのルールブックを「面倒」「非効率」として破り捨てる人物がパワーを握ったとき、私たちは歴史を逆行することになります。今のアメリカでは、まさにその事態が現実になっているのです。

    それでも希望があるのは、いまこの瞬間にもルールを守ろうと行動する人々が存在しているということです。

    たとえば、カリフォルニア州やニューヨーク州、イリノイ州、マサチューセッツ州など、少なくとも12の州政府が、

    • Project 2025に沿った連邦政府の命令に準拠しない条例を可決したり
    • 知事が「民主主義を守る州連合」への参加を表明したり
    • 州の司法が、大統領令の執行を一時停止する判断を出したり

    といった行動を起こしています。これは、アメリカという国が「1人の指導者」によって単純にコントロールできる国ではないという証明でもあります。

    今はまだ、民主主義が“勝利”したわけではありません。 しかし、敗北してもいません。

    そしてそれは、制度が頑丈だからではなく、ルールに敬意を払い、守ろうとする“意思”がある人々がいるからなのです。

    8. 結び:かつて自由を体現した国の、現在地

    アメリカはかつて、自由、民主主義、平等の象徴として世界中から注目されてきました。

    しかし今、そのアメリカは、一部の選ばれた人間だけが資本と政策を動かす「貴族社会」へと傾いています。

    しかもその変化は、戦車や暴力ではなく、制度の内側から静かに進んでいる。

    民主主義がまだ生きているからこそ、これは最後の分岐点なのかもしれません。

    次回の記事では、こうした権力構造の裏にあるもうひとつの要素──「宗教」の問題を扱います。

    「宗教の自由」の名の下に広がる宗教支配と、政教分離の形骸化。その深層にある価値観の衝突について、あらためて考えます。

    Footnote

    1. Schedule F は、トランプ政権が2020年に提案した連邦職員制度改革で、一部の政府職員を「政治的任用職(political appointee)」として再分類し、大統領が自由に解雇・任命できるようにする仕組みです。
      制度としては一度撤回されたものの、2025年1月21日に大統領令によって再導入され、現在では国家公務員の中立性と雇用保護に反するとして複数の労働組合が連邦裁判所に提訴しています。
      訴訟では、1978年の公務員制度改革法との整合性や、行政手続法(APA)に違反している点が争点となっており、Schedule F は単なる人事改革を超えて、行政機構の独立性と民主主義の根幹を揺るがす制度として、全米で注視されています。 ↩︎
  • アメリカの宗教観が「異質」な理由 〜なぜ科学より信仰が強く残ったのか〜

    アメリカの宗教観が「異質」な理由 〜なぜ科学より信仰が強く残ったのか〜

    1. カナダやメキシコと違うアメリカの宗教事情

    アメリカ、カナダ、メキシコはいずれもヨーロッパからの移民によって建国された新大陸の国家です。ところが、宗教観のあり方はこの3カ国で大きく異なります。

    国名主な宗派創造説支持率宗教と政治の関係
    アメリカプロテスタント(特に福音派)約40%共和党と福音派が強く結びつく
    カナダカトリックとプロテスタント10〜15%未満宗教の政治的影響は限定的
    メキシコカトリック圧倒的ほぼ見られない政教分離が進んだ世俗国家

    特にアメリカでは、聖書の内容を文字通りに信じる「創造説」や、「聖書は神の言葉で誤りがない」とする信仰(聖書無誤説)が広く浸透しており、先進国としては極めてユニークな状況です。

    🧠 補足:聖書を「文字通りに信じる」とは?

    アメリカの福音派の中には、「聖書に書いてあることはすべて歴史的事実であり、科学よりも正しい」と信じる人が少なくありません。たとえば:

    • 天地創造:「神が6日間で世界を創った」(創世記)という記述を、比喩ではなく実際に6日間で宇宙が作られたと信じる。
    • ノアの方舟:大洪水で全地球が水没し、ノア一家と動物たちだけが箱舟で助かったと信じる。
    • 進化論の否定:「人類は猿から進化した」のではなく、「最初の人間アダムとイブが神によって創られた」と信じる。

    こうした信仰は「聖書無謬説(聖書は神の言葉であり一切誤りがない)」と呼ばれます。

    📌 コラム:アメリカ宗教観の驚き

    アメリカの福音派(エヴァンジェリカル)や原理主義的な信仰を持つ人々の中には、「聖書に書かれたことは文字通りの真実であり、科学よりも優先される」という考え方を持つ人が少なくありません。

    たとえば:

    • 🌍 天地創造:「神が6日間で世界を創った」との創世記の記述を、そのまま歴史的事実として信じる。
    • 🧬 進化論の否定:ダーウィンの進化論は間違いで、「人間はアダムとイブから直接創造された」と考える。
    • 🛳 ノアの方舟:全世界を覆う洪水があり、ノアの家族と動物たちだけが箱舟で救われたと信じる。

    これは「聖書無謬説(inerrancy of the Bible)」と呼ばれ、聖書の記述には一切誤りがないとする立場です。

    日本では「宗教=道徳・文化の一部」とみなされることが多く、宗教的文書と自然科学が対立・競合するという発想自体がピンとこないかもしれません。しかしアメリカでは、信仰が公教育や科学政策に直接影響を与える例が多く存在します。

    たとえば:

    • 🏫 教育の場で創造説を教えるべきだという声が州議会で議論される。
    • 🌱 気候変動や環境保護の対策に対して、「神が世界を管理しているから人間が口出しすべきではない」という宗教的立場から反対する層が存在する。

    これは単なる信仰の問題ではなく、アメリカ国内での科学的合意と政策形成に深刻な影響を及ぼす現象でもあります。

    🧭 参考リンク
    英語版Wikipediaの以下のページでは、世界各国におけるプロテスタント人口の分布が視覚的にまとめられています:

    👉 Protestantism by country – Wikipedia

    この地図を見れば、アメリカ合衆国にプロテスタントが多く住んでいることが一目でわかります。特にアメリカ国内では、農村部にプロテスタント(特に福音派)が多く、都市部では宗教観が薄れつつある傾向も見て取れます。

    ※日本語版はまだ存在しないため、英語での閲覧となります。

    2. なぜアメリカでは信仰がここまで強く残ったのか?

    アメリカの宗教観がここまで「特異」なのは、次のような建国の経緯と宗教的背景に深く関係しています。

    (1)宗教の自由=無宗教ではなかった

    清教徒(ピューリタン)たちは「信仰の自由」を求めてイギリスから脱出しましたが、彼らが求めた自由は「何も信じない自由」ではなく「純粋なプロテスタントの世界を築く自由」でした。

    (2)カルバン主義と福音派の影響

    建国初期のプロテスタントは、カルヴァンの予定説や労働倫理に強く影響されており、これが後の福音派(エヴァンジェリカル)に引き継がれました。福音派は特に、

    • 聖書至上主義(進化論否定など)
    • 個人的な信仰体験(ボーン・アゲイン)
    • 社会的保守主義(反LGBT・反中絶) などの特徴を持ち、共和党の強力な支持基盤となってきました。

    3. アメリカとヨーロッパの決定的な違い

    ヨーロッパでは、宗教が国家と強く結びついていたがゆえに、近代化とともに宗教自体が衰退していきました。一方アメリカは、宗教が国家から分離されていたことで「自由競争の宗教市場」が成立。かえって宗教が活発に生き残る土壌となりました。

    その結果、「科学より宗教を信じる人が多い先進国」という、非常に稀有な存在になったのです。

    4. 結論:アメリカという「信仰の国」

    アメリカの宗教的土壌は、自由と信仰の両立という理想に基づくものでしたが、それが結果的に宗教的原理主義の温床にもなりました。

    この背景を知っておくことで、トランプ政権における福音派政策や、共和党と宗教の強い結びつきが、単なる票集めではなく、歴史に根ざした構造であることが見えてきます。

  • 独裁的な傾向のある国々に対抗する日本の連携戦略

    日本の外交は最近、北朝鮮のミサイル開発の停止や拉致被害者の救出、さらにはロシアとウクライナの問題の解決など、多くの課題に直面しています。これらの問題に対して、行き詰まりを感じることもあります。しかし、日本は武力による紛争の解決を認めず、外交努力と交渉で問題を解決するという決意を持っています。

    外交は複雑なパワーバランスのコントロールが求められるため、非公開な部分も多く、見えにくいことも多々あります。実際には、日本はASEANやQUADといった東南アジアから環太平洋を巡る広い地域との友好・協力関係を築いています。

    例えば、ASEANとの連携強化においては、経済連携協定(EPA)を締結し、貿易と投資の拡大を図っています。また、インフラ整備や技術支援を通じて、東南アジア諸国の発展を支援しています。さらに、日本はインド、アメリカ、オーストラリアと共にQUAD(クアッド)を通じて、安全保障面でも連携を深めています。定期的な首脳会議や共同軍事演習を実施し、地域の安定と安全を確保するための協力を強化しています。

    これらの取り組みにより、日本はロシアや中国といった専制主義国家群に対抗するだけでなく、地域全体の平和と安定を支える重要な役割を果たしています。

    このように、日本は地域の平和を維持するために、環太平洋や南アジアとの連携を強化することが不可欠です。友好関係の強化は、地域全体の安定と繁栄に繋がる重要な一歩です。日本の外交が持つ強みを活かし、これからも地域の平和と安定に貢献していくことを期待しています。

  • Vision Pro

    WWDCの講演を見ていました。最後に One More Thing ときて、MRヘッドセットの紹介がなされたのですが、これが、付け足しの一つどころではなく、とてつもないビッグな内容でぶったまげました。 装着者の表情が見えるように、表情をAIで描画して、外向けのパネルに表示するとか、M2レベルのハイエンドプロセッサを 2個搭載するとか、もうぶっちぎりの高機能高性能を目指していて、こりゃプライスタグは100万円を突破しているのじゃないのか… と、思っていましたが、最後に価格が USでは 3499ドルと表示されまして、安いっ
    いえいえ、決して安くはないのですが、性能・価格比でとてもコスパが良いだろうと思うのです。
    また、 iOSアプリがそのまま MR空間内で動作するところがとてもよいです。片目ごとに4Kを超える解像度の巨大表示がなされるところも素敵です。現実世界をシースルーして、仮想世界の中に現実世界を持ってきているのか、現実世界の中に仮想世界を配置しているのかは、思考の主体をどこに置くのかの問題ですが、そうした従来にない I/O を実現する新しいデバイスには期待大です。
    名称が、Vision Pro となっているところが面白いと思いました。つまり、ハイエンドデバイス扱いですね。ハイエンドがあるということは、ミドルレンジもあるでしょうし、もしかしたら、ローエンドの Vision SE などもありえます。まあ、Apple製品は、競合との比較とか一切考えていない、理想だけを追求した高価格品からスロースタートするのがいつものパターンですから、Vision Proがいきなり大量に売れるということはそうそうないでしょうが、作り込みが素晴らしくて満足度が高そうですから、じわじわと普及していくでしょう。MRヘッドセットは、入出力が双方ともに充実して、リンク機能も充実しているApple製品の購入を目指そう。というのは、iPadとVision Proの間でアプリのハンドオーバーがおそらくできると思うのです。他社製品にはそんな芸当はできないでしょう。値段は高くても、そのあたりで価値に雲泥の差があると思いました。

  • Windows11: Explorerの動作が遅い問題、拡張検索にすると解決した

    Exploreの動作が遅い時Google検索してみますと、よく紹介されるテクニックはフォルダオプションで、「エクスプローラーで開く」の設定を「ホーム」から「PC」に変える、「最近使用したファイルを表示する」「頻繁に使用されるフォルダーを表示する」「Office.comのファイルを表示する」の設定をオフにする、というものです。そうした昔に戻す設定もよいとは思うのですが、新機能をオフにするだけでは面白みに欠けるなぁと思っていました。「最近使用したファイル」を列挙するのなんて、LRUアルゴリズムを適用するだけですから、そんなに処理が遅くなるはずがないと思っていたのです。ただ実際遅くなるのは確かでして、どうしてだろうと。

    そうしたら、遅くなる原因はファイル探索にあるようで、Windows検索の動作を拡張検索にするとエクスプローラーがファイル情報を取得するのが速くなり、結果としてExplorerの動作が速くなるようです(扉画像)。にしても、このダイアログボックス、拡張検索にすると重くなるように見える書き方。実際リソース量としては書いてある通りなのだろうけれど、処理能力が向上した現在のプロセッサに合うのは、拡張検索の方のようです。

  • うまく行かない、dアニメストアとdスマートバンクの組み合わせ

    私はドコモの回線は利用していませんが、アニメオタクですので、ドコモはとても重要なサービスです。つまり、 dアニメストア、これが重要な存在なのです。他の映像配信サービスとは異なり、アニメのシリーズ話数毎のマネジメントができ、アニオタの心に刺さる便利機能がいろいろあります。他に、dマガジンが他の雑誌配信サービスとは異なり、記事のジャンル別の複数雑誌にまたがるキュレーションが行われているのが特徴で、使い心地がよいサービスです。これらはすべて、dマーケットなるページに他の d~ のサービス群と一緒に列挙されていまして、一括して契約したり解除したりできるようになっています。

    ところが、サービスそれ自体は満足度がたかいのですが、しかし、うっとうしい点があります。毎月の請求が同じ日にd~サービス毎に別々にやってくるのです。毎月のことですが、これがなかなかにやっかいで、大量にクレジットカード会社から利用通知と確認通知がずらりとバラバラにきて、その決済確認作業がめんどくさいです。なんとかならないものでしょうか。

    で、そうこうしているうちに、同じドコモのサービス内にdスマートバンクなるものを見つけました。おお、これはありがたい、毎月、メインの口座からドコモ向けの予算額をdスマートバンクに送金し、各料金はスマートバンクの口座から引き落としてもらえばよいです。
    そう考えたのですね。で、とりあえず、さくっとスマートバンクの口座を開設して、そのデビットカードを dマーケットに登録して、 dアニメストア等の料金を引き落としてもらいます。
    これ、うまく行きそうですし、実際、初回だけはうまく行ったのです。ところが、2回目からはエラーになってしまいます。どうも、初回は dスマートバンクの利用確認をした直後に引き落とされるから成功するのですが、つぎの月からの自動引き落としは、利用確認がなされないから失敗する様子。これでは使い物にならないではありませんか! スマートバンクのデビットカードがエラーになりますので、同じドコモサービスなのですから、スマートバンクからの直接銀行引き落としなど、そのほかの手段はないでしょうかと考えましたが、支払いメニューを何度再確認してもそうした設定は見当たりません。詰みました。

    というわけで、今のところ、ドコモ関係のコンテンツ支払いを dスマートバンクに統合して、支払いをメインバンクからの振り込み一発で済むようにしようという作戦は失敗に終わったのでした。

  • 電車から降りたあと、しばらくホームでたたずむ、というライフハック

    人混みが嫌いです。密集しているといろいろ小さなストレスが発生します。いや、別に困るほどの問題ではないのです。混んでいるときはお互い様です。とはいえ、大きな駅の混雑は、いやですね、と、思っていました。

    が、ある日、気付いてしまいました。ラッシュアワーの最中でも、ガラガラな時間があると。

    トップにおいた写真は、信じられないかもしれませんが、ラッシュアワー時間帯の東京駅のとある瞬間なのです。が、人がいません。このときは、少し喉が渇いて、自販機に立ち寄って一本飲み干したのですが、そうしたら、いつもギッチリ人がいるところがガラガラになっている事に気付きました。

    実は、駅が混んでいるのは、電車が到着した直後のほんの数分だけだったのですね。一分経つだけで実はガラガラの快適な環境に。こんな密度ムラが存在していたとは、知りませんでした。

    これを知ってから、駅でホームに降りてから、少し、たった一分ですが、ホームでぼんやりして団体(?)が過ぎさるのを待つのが行動パターンになってしまいました。近くのトイレに立ち寄るのでもよいです。ほんの少し時間を遅らせれば、快適だからです。

    しばらく観察していますと、乗り換えの山手線車両が混んでいるとは限らないことに気付きました。いつも混んでいて座れないですと思っていましたが、実際には混雑状況にムラがあり意外と空いていて座れてしまうときもありました。他の路線から降りた団体がちょうど乗り換えたタイミングの電車は当然混みますが、一本やりすごすと乗り換え客が入っていなくて、ガラガラだったりすることもあります。約束はできません、これは非常に複雑な系ですから、確実な予想はほぼ不可能です。ただ、次の電車がこの電車と同じ混雑状況とは限りません。毎日同じように最速で乗り換えていますと、混む電車に選んで乗っている状態になっているかもしれません。

  • 一時的な作業ファイルやメモ類は日付フォルダに入れておきます

    パソコン作業の流儀は人によって様々なのでしょうが、私が一日の始めにやる作業は今日の日付のフォルダを作成することです。パソコン作業を進める上で、様々なメモ書きのテキストファイルや断片的なソースコードや、資料画像や各種アプリケーションの一時ファイル、ネットからダウンロードしてきた数表など必要になりますが、こうしたものは、いかんせん日々異なる内容になりますし、雑多ですので、どう整理を付けるか悩ましいのです。長期間保存することになるファイルや、進行中のプロジェクトの公式なファイルは、話が簡単で、それぞれのドキュメントフォルダに格納すればよいのですが、最終的には残さない一時的なファイルの扱いがやっかいなのです。
    最初は、デスクトップにそうしたファイルを置いていた時期もありますが、デスクトップが散らかってなにがどこにあるのか分からない状態になります。収拾がつかないのですよ。
    デスクトップではなくて、一時ファイルというフォルダを作って、そこにおいておくようにした頃もありました。エクスプローラーの並べ替えメニューには、グループ化のメニューもあり、グループ化→更新日時を選択しておきますと、グループ別に表示されるようになりますので、今日のファイルと昨日までのファイルが明瞭に区別されて表示され分かりやすくはなります。ただ、直近は、日単位なのですが、古いものになると週単位、月単位でのまとめ表示になり、古いファイルは混乱してみえてよくありません。

    そのうち、単純に毎日、新しい日付のフォルダをつくって、雑多なファイルは日付別に保存しておけばよいと思いまして、最終的には、毎日最初に日付のフォルダを作成する習慣になりました。
    あとになって、思考の経緯を振り返りたく思うときがありますが、その時、その作業をした日付のフォルダを開けば、その日に一時保存した履歴がそこに残っていますので、思い出しやすいです。また、別のことを考えていたであろう別の日のファイルは、混ざらない点も、雑多ファイルを見分けるのに便利です。一時ファイルがもう参照することがないほどに古くなったときや、ディスクが一杯になってきて容量を整理したいときも、日付で削除する範囲を一括で選んでばっさり削除しやすいです。

    最初に今日の日付でフォルダを作成するのは、毎日のルーティーンになりますから、自動で実行できるようにしておくともっと便利になります。これはそういうプログラムを作るのがよいでしょうが、初歩のプログラミングの練習問題としてちょうどよい課題だと思いましたので、答えは書かないことにしました。